すっかり忘れていた。
最近、なんで今更阪神淡路大震災を引き合いに出すんだろ?と思うことがちらほらあった。
そっか、1月17日だ。
当時は神戸勤務、大阪住まい。
地震当日はテレビのニュースで、死者が3人7人、どんどん増えて23人!
二桁になった時点で大変なことになってきたな、と思った。
結局ケタは二つ増えた。
近所のパチンコ屋や自動車教習所は、当日も通常営業だった。
代替バスで乗継ぎ通勤できるようになり、大阪と神戸の違いにショックを受けた。
元町と三宮の商店街は、道路一本隔てただけで全く違うのにも、大きくショックを受けた。
JRが完全復旧するまでは、代替バスで次の駅へ運ばれた。
バス待ちは3時間前後が必至のため、テレビ放送前の暗いうちに起きて出勤した。
バスを待つ時間に比べ、乗ってる時間はあっという間だった。
時々車で通ってた国道43号線は、もともと薄暗かった。高速道路で見えなかった空の広さと視界の広さに「このままでいいやん」と思ってた。
バス待ちは寒かった。住宅街にまで列が伸び、部屋の中が剥き出しの崩れた家ばかりがすぐそばにあり、住人は大丈夫だったのだろうか、と心配な思いと怖かったことを覚えてる。

そんな被害の大きい家屋や、寒空でバスを待つ長い列を撮影する人がいて、非常に不快に感じた。
野次馬なのか、記者なのか、近隣住民の方か全くわからないけど、この惨状を写真に撮る神経がとにかく不愉快だった。
まだスマホも携帯電話も今ほど行き渡ってなかったと思う。
調べてみると、今では普及率200%近いけど当時は10%未満だった。
心から良かったと思う。当時も県外から記念撮影に来るバカがいたから。

みんなそうだったみたいだけど、地震で生き残った食器はやっすいコップ類で、高級なグラスやお皿はみんな割れてしまった。
あの後は価値観がガラッと変わったなぁ。
物は増やさず溜めず、高所に積み上げることもやめた。
てことを今思い出した。
三宮のバス乗降場から会社まで歩いて通勤した。
斜めになったビルがあちこちにあり、見上げ怯えながら歩いていたがそのうち慣れてしまった。
今にも崩れそうなビルだらけ。窓からは一様に白い物が垂れ下がりゆらゆら怖かった。


平坦な道はなく、どこもボコボコでまっすぐ歩けない。
バイクで走る人は時々いたけど、自転車は見なかった気がする。到底走れる道じゃなかったし。車道も歩道もなかった。信号は機能してたかな?
バスのすぐ横をバイクが走ったり、人が歩いていたり混在してたように思う。

当時はホテルに勤めていた。基本、休業しておりほとんどの社員は休みだった。
とはいえ宿泊客がいらしたから全機能を止めるわけにはいかなかった。
出社してる女子社員は電話交換室と、私と先輩の二人、くらいだった。
事務員がいないと、安否確認もできないからと出社を余儀なくされた。
不公平感と使命感を抱え、できることを一生懸命やってた気がする。
ちなみに当時はよく、朝すぐ干せるように洗濯機のタイマーをかけていた。
長年使用しており、ガタガタうるさいやつだった。
あの時はちょうど脱水が回っており「今日の脱水はやけによく回るなぁ」と、布団にしがみつきながら「ガタン!ゴトン」夢うつつに洗濯機の音を聞いていた。
地震だ!と気づいたのは少し経ってから。
唯一、あの地震で笑って話せるやつ
そしてこの、ホテルオークラ神戸の写真はお気に入り。
粋なことするなぁと思った。今見てもグッと来る。
母がこの写真の新聞の切り抜きを送ってきたことも、驚いたし嬉しかった。
